【本】マイケル・ウッドフォード『解任』

解任

解任

オリンパス事件で、不祥事の詳細を追及しようとして、同社の社長を解任されたウッドフォード氏による手記。


私は某上場企業の法務パーソンです。不祥事に何らかの対処をするのが仕事です。ただ、オリンパス級の不祥事が起きそのことを知ったとき、何も言わずに、休職または退職することを選ぶ気がします。不祥事の大きさや会社の状況にもよりますが、組織なるものに忠誠心はありませんから、不祥事の隠蔽に加担しないのはもちろんですし、会社のためを思い膿を出し切るために不祥事を追及するという発想にもならなさそうです。はっきり言って、会社人としても法務パーソンとしても失格ですね。。。

≪私は生まれながらの正義の味方というわけではありません。道を歩いていてたまたま犯罪の現場に出くわしてしまったようなものでした。(中略)誰だってそんな現場にはいたくありません。(中略)
 それでも、見てしまった以上、知ってしまった以上、無視することはできません。(中略)今回、私はただの通りすがりではありません。私は高額の報酬をオリンパスから得ていました。高潔に振る舞うべき責任と義務があります。沈黙を守り、そしらぬ顔で報酬をもらいつづける−−そんなことはできません。≫(61頁〜62頁)

筆者が不祥事を追及したのは、闇社会へ資金が流れた可能性がなお濃厚と言われているときでした。闇社会関係の話になりますと、自らの身だけでなく、家族に類が及ぶことを懸念してしまいますね。そんな中、決然と不祥事を追及した筆者の≪決して譲ることが出来ない、自らの根幹となる価値観≫(222頁)は、どんなふうに培われたのか分析してみたくなりました。


(1) 筆者は中等教育終了後、16歳で働き始めています。21歳のときに、当時オリンパスの販売代理店(現在オリンパスの子会社)に入社し、29歳で同社の社長になっています。同社の上位の会社の役員や欧州ビジネスのトップ、本体の執行役員と着々と昇進し、最終的にはオリンパス本体の社長になっています。


このような華々しい経歴は、本人の仕事上の成果が素晴らしかったことに尽きると思います。ただ、筆者に、充実した仕事の場を与え、その成果に見合った地位を与えた会社に対して、愛着を強く持ち忠誠心が高かったのは間違いなさそうです。しかも、よくわかりませんが、英国は階級社会と聞きますが、筆者はさほど高学歴ではありませんので、そんな筆者を高く評価した会社への愛着や忠誠心はより高まるのかなと推測しています。


さて、会社に愛着を強くもち、忠誠心が高かったのは、おそらくオリンパスの不祥事に関与した方々も一緒でしょう。筆者と不祥事に関与した方々との分水嶺は何でしょうか?


(2) 幼少時の筆者の母上の教育が大きな影響を与えたのは間違いなさそうです。

≪貧しかった子供時代、私は二度良心を試されたことがあります。(中略)
 二度目は、(中略)大好物のチョコレートバーがどうしても食べたくて、母の財布から五〇ペンスほど抜き取ったことがありました。母は非常に怒りっぽい女性でした。お金が減っているのに気づかれたとき、私はもうおしまいだ、殺されると思いました。ところが母はなぜか怒らず、こう言っただけで済ませたのです。
 「もし自分の息子を信用できないなら、いったい誰を信用できるっていうの?」
 私はこの言葉を決して忘れないでしょう。家族から盗みを働いたことを心から恥じ、盗みは二度としませんでした。≫(107頁〜108頁)

私には5歳の娘がいますが、仮に同じような場面に出くわしたとき、筆者の母上のような振る舞いができたかを考えてしまいました。母上が意識しているかどうかはともかく、「殺される」と覚悟した時に、赦す・なかったことにするのは、本人に本気で反省させるためには、有効なテクニックです。それに加え、子供の羞恥心をうまく刺激する言い方に感心してしまいます。もちろん子供への愛なんでしょうが。それはともかく、このエピソードで、筆者が良心に反することはしない性格になったのは間違いなさそうです。


私の場合、良心に反することを一切しないかと問われれば、正直自信がありません。上で仮に自分の所属している会社で不祥事が起きた場合、それを隠蔽することはないと書いたのは、自分だけの事ならともかく、所詮、会社のために、そんなことをして逮捕されるなんて嫌という素朴な感情もありますが、所詮隠蔽なんてできないだろうという諦めもあります。このインターネット社会で(古っ)隠せることなんてできないし、「お天道様には何も隠せねえぜっ」的な思いもあります。


筆者の場合積極的で、私の場合消極的ではありますが、会社での仕事が大事という価値観とは別の思いがありそうです。


(3)筆者は激務の合間を縫って、交通安全運動を、世界中で30年以上案件数にして1000件以上、一切の見返りなしに、行っているようです。筆者の次のようなコメントが本書では紹介されています。

≪「私が死ぬとき、仕事の成果よりも、道路安全向上運動活動を通じて何人かの命を救えたかもしれないことに、数倍の喜び、満足感を味わうことだろう」≫(222頁)

道路安全向上運動は、筆者が14歳の時から行っていたようです。上で述べたように、筆者は16歳から働き始めています。

中等教育修了後、しばらく夜間学校でビジネスを学びましたが、結局卒業はしませんでした。≫(47頁)

卒業できなかったのは、実際のビジネスの面白さに比べ、座学のビジネスのつまらなさよという感じで、卒業する意欲がなかったのかもしれませんが、夜間学校で学ぶことは諦めても、道路安全向上運動は絶え間なくやっていたという事実に私は注目します。換言すれば、16歳で働き始めても続き、そして、会社人として華々しく出世しておそらく死ぬほど忙しい中、また、家族との時間も大事にしながら、続けているという事実に注目します。


その原動力の手がかりとして、次の記述があるのみです。

≪一四歳のころ交通事故を目撃し、その悲惨さ、家族の悲しみに触れ、又事故の原因が簡単な工夫で取り除くことが可能であることに気づき、以来ずっと交通安全運動に携わっているそうだ。≫(221頁)

私みたいな飽きっぽい面倒くさがりからすると、働きながら家族との時間を大事にしながら30年以上見返りのない活動を続けることは、想像できません。「功なり名を遂げて」から、そういった活動に従事するなら、まだ想像できるのですが。。。。


何とか筆者の内在的論理を推測すると、おそらく14歳のころ筆者が目撃した交通事故の被害者は、筆者に近しい人だったのではないでしょうか。低レベルな倫理感しか持っていない私ですが、14歳から少なくとも英国のオリンパスの販売代理店の社長になる29歳までの間に、夜間学校で勉強する時間を優先せずに、ボランティア活動をすることには、幼い少年の心にショックを与えた何かがあるのではないかと推測する次第なのです。。。。


限られた記述からの推測では、議論が深まらないので、争いのなさそうな事実を分析します。争いがなさそうな事実は、会社人としての価値観に優先する価値観を筆者が持っているということでしょう。それを手掛かりにすると、オリンパスの不祥事に関与した方々と筆者の違いは、会社人としての価値観に優先する何か、少なくとも会社人としての価値観を相対化できる価値観を、持っていないか持っているか、の違いなのかなと。


冨山和彦氏が「社外取締役は企業不正を防げるのか」 会社法務 A2Z (エートゥーゼット) 2012年 03月号 [雑誌]で述べているように、オリンパスの不祥事に関与した方々は概ね次のような感じなのではないでしょうか。

≪サラリーマン社会の究極世界は、共同体(企業)の調和・存続と自分の人生や自己保存などの人格が一体化してしまいます。≫(同雑誌9頁)

おそらく、オリンパスの不祥事に関与した方と筆者は、平時においては、会社や仕事に対する責任感では一致します。ただ、平時でないときに、会社人としての価値観だけを持っている人と、他の価値観を持っている人で、その対応が違ってくるのかなと。


オリンパスの不祥事で逮捕された方々、それなりのお年ですね。非常に突き放して言えば、さっさと辞めてしまえばよいのに、と組織に忠誠心のない私は思ってしまいます。もっとも、現状私が把握している限りでは、オリンパスの不祥事はバブル期の財テクに失敗した損失を隠しに隠した結末のようですので、嘘をつきとおすとどんどん嘘をつきとおさなければならない結果、辞めるに辞められないところに追い込まれたのかもしれません。


嘘をつきとおさなければならなかったという事情は視野の外に置いて議論を単純にすると、「会社=人生」というところに問題がありそうです。会社一筋か否か。


とはいえ、会社・仕事に対する責任感がそもそもない人は、そういう人を否定するわけではありませんが、程度問題はあれ、不祥事に加担するとか不祥事を追及するとかいう以前の問題です。ですので、これを視野の外に置くと、先日、会社で尊敬する方から聞いた言葉が手がかりになりそうです。

「会社は人生ではありませんが、働くことは人生そのものです」

仕事に対する責任感は強く持ちつつも、会社で働いている自分を相対的にできる何かを持っているのが大事ですね。言うは簡単、行うは難し。

29歳の筆者をオリンパスの英国販売代理店の社長に抜擢したレディホフ氏は、筆者を抜擢した理由を次のように述べています。

≪この世の中には掃いて捨てるほどたくさんのグッドナンバー2と、ごく一握りのグッドナンバー1がいる。グッドナンバー2が知識、経験を積んでグッドナンバー1になれる確率は驚くほど小さい。だから経営トップの後継者探しは、グッドナンバー1を探し出し、それに必要な教育を施すことが不可欠になる。それが出来ず、手近なグッドナンバー2を後継者に選んだ時点から組織の衰退は始まる。(中略)
 経営トップは修羅場の舵取りだ。きれいごとだけで何とかなるほど単純ではない。だからこそ企業は間違ったことをやらないこと、正しいことをやりとおせることが大切になる。グッドナンバー1とグッドナンバー2の差は、この点に関するスタンスの強靭さの差である。修羅場に臨んでも、絶対に揺るがない、強靭な軸を持つこと、これが経営トップに求められる最大の資質だ≫(218頁〜219頁)

絶対に揺るがない、強靭な軸は、ある種先天的なものかもしれませんね。頑固な性格の人っていますもんね。とはいえ、経営トップに求められる程強固なものでなくとも、「仕事=人生」みたいな価値観を相対化できる何らかの軸を持っていたいものです。


猪瀬直樹氏は、『決断する力 (PHPビジネス新書)』で、価値観のぶれない変人と、価値観がブレブレの秀才の話の中で、秀才は人との比較で自分の立ち位置を決めるのでブレる、と指摘しています。逆に言えば、人との比較で自分の立ち位置が決まらない世界を(少しでも)持っていると、「仕事=人生」みたいな価値観を相対化できる何らかの軸を持てそうです。


これに関連して、成毛眞氏は、『大人げない大人になれ!』で、誰もが大人げなさを持っており、それを取り戻すことができれば、自然とその他大勢の人々とは差別化されると指摘します。取り戻すために、例えば、(1)≪やりたいことは我慢できないという、ほとんど小学生並みの行動原理で動く≫(同書23頁)、(2)≪「趣味の作り方」などという本や雑誌を開くのではなく≫(同書145頁)≪今すぐに、自分が子供のころに夢中になっていた趣味やスポーツに再挑戦するべきだ≫(同書142頁)、(3)≪読書をするのも最も有効な手段の一つである。本を読むことで、自分がどんなことにわくわくするのか再確認できるし、面白い本は自分を縛っている常識を打ち破ってくれるからだ≫(同書177頁)と指摘します。


話がずいぶん脱線しました。会社の不祥事が起きたときに、私は筆者のように決然と不祥事を追及することはないだろうということについて、当初は法務パーソンとして失格と感じました。しかし、そんなことはどうでもよいというのが上でくどくど考えたうえで出た結論です。決然と不祥事を追及することは、マッチョで恰好が良いですね。でも、私はマッチョな言動の人を横でせせら笑うキャラです。その限りで、少なくとも、「仕事=人生」みたいな価値観を相対化できる何らかの軸が自分にあるかなと思いました。筆者の軸とは、全くベクトルが異りますし、軸は強くないですが。


私に何らかの軸があるとすれば、その理由は、群れることが嫌いな生来の性格と、読書が大きいのかなと。この本の書評としては最低の結論ですが、私の場合、≪決して譲ることが出来ない、自らの根幹となる価値観≫を育てるために、引き続き幅広く読書をし、不必要に我慢しないことが重要なんだと思いました。