【本】猪瀬直樹『決断する力』

決断する力 (PHPビジネス新書)

決断する力 (PHPビジネス新書)

著者の本を読むのは初めて。今年(2012年)の2月終わりに始めたTwitterでたまたま「おお」という著者のツイートを見て、すかさずフォロー。著者のツイートを追っているうちに、本書の存在に気づき、購入。すぐに読了。
筆者が東京都副都知事として陣頭指揮した東日本大震災時の対応等を具体例に、筆者のノウハウをビジネスマン向けに紹介。著者のツイッター名言集も掲載。思索を深めてくれる記述もあり、盛りだくさんのお得な本です。

「百かゼロでない議論」

≪「災後」の最大の課題は言語技術です。ソーシャル・ネットワークの時代だからこそ、ファクト(事実)やエビデンス(証拠)など根拠を示しながら、感情に走らず、形容詞を使わず、百かゼロにならない議論ができるかどうかにかかってくるでしょう。連休返上で『言葉の力』(中公新書)を書きました。≫(170頁、ツイッター名言集10)

感情に走る議論、形容詞を多用する議論、百かゼロの議論をするのは簡単です。このような議論をしないためには、忍耐が必要だと思います。人はそれぞれ生まれ育った国や家庭の刷り込みや、常識、積み重ねてきた経験等から培われた、意識することのないなんらかのポリシー(一応「ポリシー」と呼びます)にとらわれていると思います。育った環境などは人それぞれですから、そんなポリシーを前面に押し出して議論すると、感情に走った、形容詞の多い、百かゼロかの議論になりがちです。議論をするときは、相手の言っていることをむげに否定するのではなく受け止めながら、議論をしても水掛け論になりそうな相手のポリシーを取り除いて、議論の目的を達成するために有益な論点を設定する必要があるんだろうと。その例の一つが、筆者が述べている事実や根拠の評価なのかなと思います。著者が『言葉の力 -   「作家の視点」で国をつくる (中公新書ラクレ)』でどんなことを言っているのか楽しみです。


さて、感情に走った、形容詞の多い、百かゼロかの議論は、どの国にもあるのでしょうが、過去の歴史を見ても、現在の「政局」を見ても、日本はこの種の議論がとても多い気がします。その意味で、著者の次の記述に、興味をひかれました。

≪反原発を叫ぶのは自由だしあんな事故を起こしたのだから誰も賛成とは言わないよ。日本が戦争に負けたときにもそうだった。戦争反対ヘイワヘイワと叫ぶことで戦争を「想定外」にしてきた。それが戦後社会の言説の特質でした。だから僕の著作は日本の近代を明治から遡ることにしたのだよ。≫(110頁、ツイッター名言集6)

著者の名前は知っていても、その著書をこれまで読んだことのない私は、上の記述で初めて著者の著作領域を知ったのでした。それはともかく、(1)自分が無意識にもっているポリシーは何かを明らかにするために、また、(2)「感情に走った、形容詞の多い、百かゼロかの議論」は日本に多いという仮説を検証するために、さらに、(3)その仮説が正しい場合にその内在的論理は何かを追求するために、著者の著作を読んでみようと思いました。


大まかにいうと、このブログを書いている問題意識の一つとして、自分も含め日本に住まう人ってどんな価値観や特質をもっているのかを、良いところも悪いところも含め、少しでも知りたいことが挙げられます。著者の「日本の近代を明治から遡る」著作を読んで、「百かゼロでない議論」に巡り合えたら嬉しいなと思います。

「変人」と秀才

日本に住まう人の価値観や特質に関連して、著者の次の記述も興味を引かれました。

≪周囲の反対を押し切ってでもやらなければならないことがある。震災は国難であり、国民としてどう課題を共有して乗り切るか、リーダーが決断しなければならない。リスクのない対処法などないのだから。こういうときは、「変人」じゃないと乗り切れない。(中略)
 自分独自の価値基準を持っている人は、まわりの人たちから「変人」と呼ばれるけれども、ひとつの世界観を持っているわけだから、まったくブレない。
 いっぽう、秀才というのは、隣を見て判断しようとする。他人の物真似は得意で、短期間にそれなりの成果は出すけれど、自分独自の価値基準を持っていない。だから、他人の評価に弱いし、日和見主義になりがちだ。(中略)
 いかにも日本的な均質な組織だと、いざというときにも横並びがはびこって、共倒れになる危険がある。いっぽう「変人」ばかりだと、みんな別々の方向を見ているから、組織がてんでんばらばらになってしまってまとまらない。(中略)
 戦後の画一化された教育は、「変人」の混ざり具合を下げる方向に働いたのではないか。≫(86頁〜88頁)

「変人」と秀才との区分は相対的で、「変人」の占める割合が多い人もいれば、少ない人もいるというのが正確なところかもしれません。さらにいえば、「自分独自の価値基準」についても、程度の問題はあり、相対的と思います。独自すぎるのもちょっと。。。。それらを視野の外に置いて、おそらく筆者が言いたいことは、有事のときは、ブレないビジョンを持った人間がトップにいる必要があるということでしょう。


筆者は常に、ブレのないトップが、ブレブレのトップよりも、良いと思っているのでしょうか?
「良い/悪い」という概念も多分に相対的です。歴史的評価として「良い/悪い」の判断もありますし、その場その場の状況で「良い/悪い」という判断もあるので、場合分けしてみます。ブレブレのトップによるその場の状況の判断は、「良い/悪い」の評価すらできないという前提で、実験的に、ブレのないトップとブレブレのトップのどちらが良いか筆者の意図を推測してみます。


まずは形式的に分類して、どちらが良いか明確な場合と不明確な場合を腑分けしてみます。

(1)結果が良い場合で、ブレないトップによるその場の判断も良いとき
→ブレのないトップが良いということになろうかと。
(2)結果が良い場合で、ブレないトップによるその場の判断が悪いとき
→?
(3)結果が悪い場合で、ブレないトップによるその場の判断が良いとき
→この場合、人間は所詮先のことはわからないので、全力を尽くすという意味で、ブレのないトップが良いということになろうかと。
(4)結果が悪い場合で、ブレないトップによるその場の判断も悪いとき
→?

次に、どちらが良いか不明確な次の場合について、考えてみます。

(2)結果が良い場合で、ブレないトップによるその場の判断が悪いとき
(4)結果が悪い場合で、ブレないトップによるその場の判断も悪いとき

この場合、筆者はどちらに軍配を挙げるでしょうか?要するに、ブレないリーダーがその場その場の判断、つまり、「独自の価値基準」が間違っていたときでも、ブレブレのリーダーより評価できるか、できないかです。

筆者が「変人」を礼賛する文脈が、東日本大震災後の国や地方公共団体のトップのブレブレな態度に比べ、東京都はトップが変人だからうまくいったぜというものですので、ブレないトップが悪い判断をする場合を想定していないでしょうね。これを前提に、筆者の主張を正確に把握すると、「有事のときは、ブレない【良き】ビジョンを持った人間がトップにいる必要がある」ということかなと。

これは難しいですね。もちろん、「良い/悪い」という判断についても、良い面もあれば悪い面もあり、端的に判断できない場合のほうが多いでしょうが、仮に端的に良い/悪いと判断できると仮定してみると、ヒトラーみたいな間違った判断をしたブレない「変人」がトップにいた場合と、秀才のトップが何も判断できずに(1)同じ結果になった場合や(2)かえって良い結果になった場合とはどちらが良いか判断が付きかねます。究極の選択ですね。


こんな感じで、思索を深めるためにも役立つお得な本です。