【本】宮崎駿『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

子供のころ岩波少年文庫を読んでいた方は懐かしくなって、また買ってみたくなる本。
小さい子供のいる方は、どの本を買ってあげようか、読ませてあげようか、ワクワクする本。
もうすぐ娘の5歳の誕生日なので、こんな本をアップしてみました。



筆者おすすめの岩波少年文庫五十冊の一冊に挙げられていたロフティングの『ドリトル先生航海記』。ドリトル先生シリーズが大好きで大好きで、小学生のころ何度も何度も読みました。訳者を見ると井伏鱒二。大文豪ではないか。大文豪の訳を当時の私は夢中になって読んでたと思うと不思議な感動を覚えます。

≪どこか気に入った本を見つけて、その世界のなかにほんとうに入り込むくらいまで読んでみると、日本語しかみていないのに、「この翻訳はおかしい」と指摘できるようになったりします。本は面白いものです。≫(146頁)

こんなに一心に本に入り込めたら、私はほかに何もいらないです(笑)。うらやましい。
油断すると、5行まとめ読みで、文字を追っかけていることだけが楽しいみたいな活字中毒的読書をしてしまう私。

≪あわてて読んではいけません。ゆっくり、なんども読んで、声を出して読んで、それから心にひびいてくるものや、とどいてくるものに耳を澄ませて、場面を空想して、何日もたってからも読んで、何年もたってからも読んで≫(30頁)

こんな風に読むと本に入り込めるのかもしれませんね。素敵です。



この本の後半は、一転して身につまされる内容です。

≪生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。この国だけではありません。破局は世界規模になっています。おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの第一段階に入ったのだと思います。
 そのなかで、自分たちは正気を失わずに生活をしていかなければなりません。
 「風が吹き始めた時代」の風とはさわやかな風ではありません。おそろしく轟々と吹き抜ける風です。死をはらみ、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようという風です。≫(151頁)
≪現在の状況は、終わりが始まったばかりだと思っています。(中略)
 今はまだ、(中略)衰えたとはいっても、印刷物もあふれているし、押しつけがましいテレビやゲーム、漫画も子どものなかを埋め尽くしています。悲鳴のような音楽もあふれている。まだ以前の生活を、いつまで続けられるかって必死でやっている最中でしょう。
 それをどんなにやっても駄目な時がくるんです。だと思います、僕は。
 始まってしまったんです。これから惨憺たることが続々と起こって、どうしていいか分からない。まだ何も済まない。地震も済んでいない。「もんじゅ」も片付いていない。原発を再稼働させようとして躍起になっている。そういう国ですからね。まだ現実を見ようとしていない、それが現実だと思います。≫(164頁〜166頁)

簡単に言うと、『風の谷のナウシカ』で地球中を腐海にした最終戦争的な出来事がこれから始まるみたいなイメージなのだろうと理解しました。上で引用している箇所だけでは、十分伝わっていないかもしれませんが、著者はこれからの世界にかなり悲観的です。著者の父上は9歳の時に関東大震災で一番被害の大きかった被服廠跡で何とか生き延びたようです。父上の人生に対するスタンスを筆者はあまり好きでなかったような印象を受けますが、東日本大震災を経て父上のスタンスをはじめて理解できたと筆者は述べています。
風の谷のナウシカ』の世界では、最終戦争により、地球で人類が住める場所は限定され、電力は使えず、人類の生活や技術のレベルが中世とか近世くらいまで戻ってしまう、という設定でした。特に、原発の事故のことを考えると、結構リアリティがあるなあと。住む場所が限定されるとか、電力が使えないとか。



東日本大震災で、机の下にもぐって、長い揺れが終わるのを待っているとき、ふっと頭に浮かんだのは、かわぐちかいじ太陽の黙示録』でした。富士山の大噴火がおき、日本列島だけでなく、日本国家が2つに分断され、米国と中国が支配を及ぼす国が2つでき、日本人の多くが難民として世界各国にのがれ、現地の国の住民と摩擦が起きて…という設定でした。地震がおさまり、しばらくTVにかじりつく日々が続きましたが、原発の事故とそれに対するあまり芳しくない対応を見て、日本から難民が出るかもなあ、私はどうするんだろうと、心配しました。ちょうど震災の直前に家を購入したばかりで逃げれんじゃろうとも思いましたが、子供のことを考えると日本から逃げて何とか生き延びなければとも考えました。……過去形で書きましたが、まだわかりませんね。
私が思い出したのは漫画でしたが、小説にしろ漫画にしろアニメにしろ、それをあらかじめ読むことで、天変地異や大事件に遭遇した時の耐性がつくというか、パニックにならずに冷静に対応できるかもしれません。東日本大震災のときも、自分は思ったより冷静だったように思います。これから起きることの耐性をつけるために、もう20ウン年ぶりですが、『風の谷のナウシカ』改めて見てみようと思いました。
そういえば、私が『風の谷のナウシカ』を見たのは、ちょうどドリトル先生シリーズを何度も読んでいた小学3年、4年生のときでした。何たる偶然。



さて、こんな「風が吹き始めた時代」。著者の見通しはかなり悲観的ですが、これに対する著者のスタンスは次の通り。

≪僕らの課題は、自分たちの中に芽ばえる安っぽいニヒリズムの克服です。
 ニヒリズムにもいろいろあって、深いそれは生命への根源の問いに発していると思いますが、安っぽいそれは怠惰の言い逃れだったりします。僕らは、……生活するために映画をつくるのではなく、映画をつくるために生活するんです。≫(156頁)
≪ふだんどんなにニヒリズム(中略)にあふれたことを口走っていても、目の前の子どもの存在を見たときに、「この子たちが生まれてきたのを無駄と言いたくない」という気持ちが強く働くんです。(中略)子どもたちが正気にしてくれるんです。≫(164頁)
≪僕は、映画の未来とか、そういうことについてはあまり絶望などしていない。そんなことよりも、お前が何をつくれるんだとこう、いつも問い詰められています。≫(166頁)

悲観しながらも時代の流れに真正面から向き合うエネルギーを感じます。このエネルギーは子供に対して「生まれてきてよかったんだ」というメッセージを送り続けていることを著者が明確に自覚していることから来るんだと思います。



私は自分が生きていくのに精一杯で、子供を育てることは手に余ると思っていました。自分が30歳まで働かず、親の脛を相当かじりつづけていたこともあり、子供を育てるのは本当に大変と思っていました。ところが、運命の神様のいたずらか、結婚し、子供を授かりました。もうすぐ5歳になります。これまでの妄想はどこへやら、もう本能レベルで「かわいい」「生まれてきてくれてありがとう」と思ってしまいます。たまに、面倒だなと思うこともありますし、これから子どもが反抗期になって自分の思いがどうなるかはわかりませんが。
びっくりしたのは、子供が妻のおなかに入ってから、目にする子供への視線が優しくなったこと。今でも、背が1M以内の0歳〜6歳くらいの子供を見ると、「ああかわいい」と思ってしまいます。
東日本大震災を経験して、余計に思いますが、本当に「子どもたちは自分を正気にしてくれます」。私は特に、面倒なことに遭遇したとき、「あ〜面倒。もうどうでもいいや」という気持ちになりがちなんですが、子供の存在は本当に大きい。この本はそんな気持ちを強くしてくれます。



気持ちは気持ちで気高く保つのは大事ですが、何も行動しないのは、あまり意味がないですし、時代の大きな流れに流されてしまいます。その意味で、著者が「映画の未来」という大きな話よりも、自分が何をつくれるのか自問自動しているくだりは参考になります。大きな話は、自分たちの小さなちょっとした行動の積み重ねの結果生まれるものだろうと著者は言っているんだろうと解釈しました。



この本は、ブログですでにアップした 神田昌典『2022-これから10年、活躍できる人の条件』(2012-03-09 - 酩酊法務日記)、津田大介『情報の呼吸法』(2012-03-11 - 酩酊法務日記)より前に読んだ本です。今回この本をブログにアップするにあたり、再読してみました。


佐藤優『国家論』(2012-03-04 - 酩酊法務日記)を読んで温めていたことを、前の二書に喚起されブログやツイッターを始めた私がどんな方向に進むのか、この本ですこし輪郭が明らかになったような気がします。それは、「子供たちを何とか生き延びさせて、新しい時代の橋渡しをする役割を私は微力ながら担うべき」というものです。大きな物語を心に秘めて、自分ができることをコツコツとやる。再読して、そんな気持ちを新たにしました。