【本】原研哉『日本のデザイン――美意識がつくる未来』

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)

日本の良さを端的に指摘する本です。


私は部品メーカーの法務職で、文系のため製品の技術のことはよくわかりませんが、それでも、自分の会社がどういう方向に行けば生き残るのだろうということはいつも考えています。自分の会社だけなく日本のメーカーについてもです。


漠然と考えていることは、平凡ですが、量ではなく質で勝負するということなのかと。


「ものづくり」こそ日本のお家芸、なんてよく言われますが、韓国、中国、台湾に押されている分野も多いですね。
かつての高度経済成長は、すごく大雑把にいうと大量生産なんでしょう。かつての高度経済成長のとき、戦争で荒廃した国土の復興と、若者人口比率の高さと安い人件費をてこに、とにかく先進国の製品を模倣していっぱい働いて大量生産し、これが高度経済成長につながった。これが「ものづくり」こそ日本のお家芸といわれる所以なのかと。
これからどうなるかはともかくとして日本の国土は高度経済成長のドライブになるような荒廃はないですね。また、出生率が低下しており、若者人口比率は低くなっています。さらに、人件費は高いですね。
かつて、日本が米国を追いかけた構図が、日本と韓国・中国・台湾との間にもあるんだと思います。
歴史をさかのぼれば、日本は最先端の文明を、中国本土の帝国や、朝鮮半島の国から輸入していました。ポテンシャルとして、日本と中国・韓国との間で、モノづくり能力に絶対的な差異があるようには思えません。ですので、大量生産という点では、若者人口比率や人件費という点で、日本に分があるとは思えません。


その意味で、日本のメーカーは、質で勝負するほかないと考えています。
質というと、すぐに、高い技術が思い浮かびますが、佐藤優氏が次のように述べていることに、個人的な実感からしておおむね賛成しています。

≪魚住「日本は(中略)製造業の高い技術力、たとえばITや環境分野を活用した生き残りは難しいのでしょうか。」
 佐藤「とくに環境分野での技術的な優位は成り立ちづらいと思います。(中略)たとえば、ソーラーパネルの新製品を作ったとしましょう。しかし翌年にはベトナムで最新のソーラーパネルが作れるんですよ。ベトナム、タイ、インド、中国など良質な労働力が確保できるところなら可能なんです。ですから、新製品、新技術が陳腐化するまでの時差を利用した、『資本論』的に言えば、特殊剰余価値を得るという"うまみ"がほとんどなくなってきています。先進技術開発は限りなく慈善事業に近づいてきているのではないでしょうか。≫(佐藤優魚住昭政権交代という幻想 ラスプーチンかく語りき3』180頁〜181頁)

「ものづくり」が日本のお家芸ということで、技術について日本が優位にあるように思いがちですが、そんなことはないでしょう。先程も言いましたが、日本は最先端の文明を、中国本土の帝国や、朝鮮半島の国から輸入していました。幕末から明治維新では欧米の文明を輸入していたわけです。分野によるでしょうが、日本の技術に絶対的な優位性があるとは思えません。


他の国のメーカーと比較して、日本のメーカーの優れている点はなんだろうと考えていました。本書にそのヒントがあると思いました。

≪この国を繁栄させてきた資源は(中略)繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。≫(6頁)

とはいえ、自分がこの4点「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」を備えているかよくわかりません。事実、筆者もこの4点のうち、「簡潔」という点について、次のように述べています。

≪僕らはいつしか、もので溢れかえる日本というものを度を越えて許容してしまったのかもしれない。(中略)いつの間にか日本人はものを過剰に買い込み、その異常なる量に鈍感になってしまった。≫(101頁〜102頁)

「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」という日本人が優位にたつ美意識を、日本人はその深層に保持し続けていると筆者は他の箇所で指摘しています。自分が「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」な美意識を持っており、それが自分の言動につながっているかについては、自信はありません。ただ、「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」という美意識は素敵だなあと思いますし、自分の言動がそのような美意識に基づいたものでありたいと思います。筆者のいっている「深層に保持している」とは、そのこと「も」言っているのではないかと思います。筆者は「簡潔」という美意識を顕在化するためにはどうしたらよいかについて、次のように指摘しています。

≪現在の住まいにあるものを最小限に絞って、不要なものを処分しきれば、住空間は確実に快適になる。試しに夥しい物品のほとんどを取り除いてみればいい。おそらくは予想外に美しい空間が出現するはずだ≫(103頁〜104頁)

自分の家、部屋を改めて見直してみると、まあモノの多いこと。家については家族がいる関係で(笑)自分のコントロール外ですが、せめて自分の部屋は何とかしないとと思いました。自分の部屋は本であふれかえっています。書棚に並んだ本の背表紙を眺めていると、いろいろなイマジネーションがわいてくることが多いので、どうしたらよいか考え中です。


さて、「簡潔」という日本人の美意識について、著者は、いわゆる応仁の乱前後に足利義政が主導した東山文化がどのように成り立ったのかという文脈で、興味深いことを指摘しています。

≪義政は(中略)おそらくは権力の頂点で美を探求し、さらに応仁の乱の壮絶な喪失を経ることによって、何か新しい感性のよりどころを掴んだのであろう。
 それまでの日本の美術・調度は決して簡素なものではなかった。ユーラシア大陸の東の端に位置する日本は、世界のあらゆる文化の影響を受け止めてきた。日本は案外と絢爛豪華な文化の様相を呈してきたはずである。(中略)
 それらの文物を集積してきたメトロポリス京都の消失を目の当たりにした人々の胸に、(中略)おそらくは、(中略)究極のプレーン、零度の極まりをもって絢爛さに拮抗する全く新しい美意識の高まりがそこに生まれてきたのではないか。(中略)
 なにもないこと、すなわち「エンプティネス」の運用がこうして始まる。≫(66頁〜67頁)

その意味で、日本に住まう人間の美意識が変わるには、まだまだ時間がかかるのかもしれません。自戒も含めてですし、特に日本に住まう人にその傾向が強いように感じますが、人の意識が変わるには、凄まじい環境の変化が必要なんだと思います。


東日本大震災から1年たちました。被災地域にもいたわけではなく、物質的な不都合は計画停電や一時的な物資不足程度ですが、決定的に自分の内面にある何かが変わったと思っています。
ただ、その変わり方がまだ足りないのかとも思っています。関東に住んでいて生き残っている私は、震災前と同じ生活をしています。正直に申し上げて、震災直後にビールが品薄になって、福島第一原発の事故のニュースやらで自分の子供を首都圏に居住させてよいのかなどの心配が募る中、思う存分飲めなかったのは辛かったです。これが宮崎駿が『本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)』で指摘する≪まだ以前の生活を、いつまで続けられるかって必死でやっている最中≫なのかと思っています。


その意味で、さらなる凄まじい環境の変化がないと、日本人が深層に持っている「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」な美意識を「自然に」取り戻せないのではないかとも思います。凄まじい環境の変化としてさしあたり考えうるのは、大震災でしょう。


原発のことを考えると、美意識を取り戻すとか言っている余裕がない状況になることも考えられます。具体的には、大震災で、日本各地の原発福島第一原発のようなことになって、日本のどこにも住めなくなってしまうということかなと。日本のどこにも住めなくなってしまう状態になった場合に、もし自分が生きていれば、生きているだけで幸せということで、粛々と国外に難民として逃亡するんでしょう。このような場合は、おそらく、かつて自らの国土を追われたユダヤ人がどのようにイスラエルという国家を取り戻したのかということを参考にするのかなと思います。ただ、このような場合は美意識の復権云々を言っている場合でないと思いますので、さしあたり視野の外に置きます。


それ以外の場合、つまり、(1)さらなる凄まじい環境の変化がない場合、(2)さらなる凄まじい環境の変化はあったが日本に住める場所がある場合、に美意識を復権するためにはどうしたらよいかを考える実益があると思います。


(2)の場合は、筆者の論を借りれば、深層にそのような美意識を保持しているので、自然とそのような美意識は復権され、時の流れに身を任せればよいんだと思います。


(1)の場合は、日本全体で美意識が自然に復権されることはないと思います。そのときに備え、「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」な美意識を磨いてきたいと思いました。


そのために、さしあたり、自分の部屋をなんとかしなくては。また、筆者が「簡素」の例として挙げる慈照寺(通称銀閣寺)東求堂同仁斎や、桂離宮に行ってみよう。その前にそれらの写真集も買って見てみよう。