【本】西條剛央『人を助けるすんごい仕組み』

この本を読むまで、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」のことを知りませんでした。恥ずかしい。恥ずかしさとともに、私がとりあえず、今社会人として生きていける礎を築いてくれた最初の上司のことを思い出して泣いてしまいました。



この本の前半は、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の歩んだ道のりについて書かれています。こんなことが起きていたなんて知らんかったと思いながら、頁をめくる手が止まりません。



東日本大震災の2週間後に私は、引っ越しを控えていました。当時ガソリンが不足していることもあり、引っ越しのトラックのガソリンどうすんべさ、引越しできるのかなあと不安になりながら、大震災から2週間はひたすら引っ越しの準備に追われていました。無事引越しを済ませてからも、電力不足リスク対応と並行した株主総会対応で疲れ果て、家に帰るとすぐ寝てしまう生活が続いたのを思い出しました。


ブログで、エラそうに、東日本大震災をきっかけに意識が変わったなんて私書いていますが、本当に恥ずかしくなりました。吉田拓郎が『望みを捨てろ』で「妻と子だけは温めたいから〜」と歌ってますが、それしか、いやそれすらもできなかったかも。


「何かしらの支援をしなきゃいけない。キー」みたいなのは息苦しい。支援をするのも支援しないのも、それは自由。強制されるものではありません。強制するのは問題。でも、そんな法律の建前が頭にあっても、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の道のりの記述は心を打つものがありました。



後半は、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」のバックボーンとなった「構造構成主義」なる議論のことや、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」を支えた組織づくりについて書かれています。


この本によれば「構造構成主義」について、次のような記述があります。


≪『方法』というのは、必ず『ある特定の状況』で使われますよね。『ある特定の状況』のもとで『ある目的を達成する手段』のことを『方法』と呼びますが、これって定義上『例外』がないんです。要するに、考えればいいポイントは2つしかない。それは『状況』と『目的』です。今はどういう状況で、何を目的にしているのか。今回の場合、目的は『被災者保護』ですけれども、この2つを見定めることで、『方法』の有効性が決まってくるんです≫(161頁)

一見、シンプルで当たり前のことが書かれているように思いました。シンプルで当たり前のことをみると、平凡〜って思ってしまうバイアスがあるかもしれません。しかし、私は、シンプルで当たり前の結論こそ、そこに至るまでにどれだけ七転八倒したのか、に想いをはせてしまいます。私が正式に社会人になってはじめての上司は私に次のことを言いました。


「俺はお前みたいに法律に詳しくないよ。なので、お前に教えてあげられることは、(1)お前がやっている仕事の目的は何か、(2)お前がやっている仕事がどこにつながってるかを考えろということだけだよ。」


私は法務マンですが、いろいろあって、上司は法律は詳しくない元証券会社の営業マン。上の話を聞いた時、イメージがわかないなあと思ったのを覚えています。それでも、その上司は、仕事中でも、仕事が終わっていないのに無理やり私のPCを上司がシャットダウンして毎日飲みに行った(行かされて)場でも、(1)仕事の目的と(2)自分のやっている仕事がどこにつながっているのかが仕事をするうえでいかに大事かを滔々と説いてくれました。それ以外で怒られたことはありません。洗脳効果か(笑)、仕事に煮詰まった時に、この仕事の目的はなんだろう、自分のした仕事がどこにつながっているのだろうということを徐々に考え始め、それが自然と体に染みついてきました。これまで、100冊くらい仕事のノウハウ本などを読んだと思いますが、この2原則に勝る本に出会ったことはありません。今でも、この上司に足を向けて寝れません。筆者の上の記述を見て、私の最初の上司が滔々と私に教えてくれたことを思い出して、泣いてしまいました。


そんな感じで、シンプルな原則であればあるほど、実は深いんだと、身に染みて感じています。著者が言いたいことは、目的と手段を混同してはいけない、「状況」に応じて柔軟に手段・対応を変えていかなければならないということなのかなと。



ただ、その他の「構造構成主義」について書かれた記述をみても、頭の悪い私は、本書で挙げられたすごいプロジェクトができるようには思えません。すごく機転の利く人だなあと思いました。簡単に真似できるものではないと。



「構造構成主義」について詳しくはわからないのですが、それをバックボーンに、熱き思い、他者への想像力、機転の利く頭、無欲な心を持つ筆者、そして、それにこたえる人たちがいて、素晴らしいプロジェクトを遂行したのだろうなと。



筆者は東日本大震災で仙台に住む叔父様をなくされ、実家も仙台にあり、そのことがこのプロジェクトを進める熱き思いの原因の一つでしょう。私は、幼少のころ、1年間仙台に住んでおり、東北大地震(1978年)を経験しました。上の階に住んでいた遊び相手や、母親が買い出しに行っている間に私の面倒を見てくれた方々はどうしているのやら。東日本大震災が起きた直後、母親に聞きましたが、久しく連絡を取っておらずわからないとのことでした。今も気になります。。。。