衆院憲法審査会 「公共の福祉」→「公益及び公の秩序」

6月8日の日経新聞に概要次のような記事がありました。

衆議院憲法審査会において、日本国憲法の「公共の福祉」という文言はわかりにくいとして、これを「公益及び公の秩序」に変更してはどうかとの提案があった。

大雑把にいうと、人は、他者に迷惑をかけない限り、好きなことができる権利を持っています。これを人権なんていいます。
例えば、全裸になる権利(謎)。風呂に入るときは全裸ですね。誰もいない(でしょうから。誰かいるときは別にその人に迷惑をかけないでしょう)ため、風呂に入るときは全裸になる権利があります。オッサン(いんくるーでぃんぐ わたし)が満員電車の中で全裸になったら? それはただの公害。迷惑にもほどがあります。少なくとも、オッサンは満員電車の中で全裸になる権利は制約されます。
それはさておき、上にいう「他者に迷惑をかけない限り」を「公共の福祉」と呼んでいるのが一般的な見解です。憲法の教科書には、公共の福祉とは、「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である」なんて書いてあります。


個人と無関係な社会公共の利益により、人権が制限されるという意味ではありません。また、難しいですが、多数のために少数が犠牲になるという意味に即座にはならないことに注意です。

さて、変更案の「公益及び公の秩序」です。確かに、「公共の福祉」という文言から、「他者に迷惑をかけない限り」という意味を見出すことは難しいです。だからといって、「公益」「公の秩序」もわかりにくいですよね。一般的に言って、わかりにくい文言があれば、法律の専門家は好きなように、その内容を操作できます。個人と無関係な社会公共の利益があれば、人権制限OK。多数がOKなら少数の人権を制限するのはOKということは簡単にできます。 「社会公共の利益」は、「お国」にも変換可能ですし。


いや〜怖いですね〜。ただ、「戦前の軍国主義思想を想起させ、極めて危険な発想である」みたいなステレオタイプな批判をするつもりはありません。興味をかきたてられるのは、このような考えに至った背景です。


 考えられるは2つ。1つ目は、日本という国の力が弱まっているから何とかしなきゃといった思い。二つ目は、欧米的な個人主義は日本に合わないのかもという想い。


 まず、1つ目の「日本という国の力が弱まっているから何とかしなきゃといった思い」について


   東日本大震災で日本が弱っているから?
   失われた20年で徐々に弱ってきた日本が東日本大震災でさらに弱ったから?


 どちらもあるでしょう。もっと長いスパンで、日本が弱っているという認識もあるのかもしれません。しかし、上で述べたように、よく実態のわからない「お国」のためにという理由で、人権制限がOKになるなら、極端な例を挙げれば、風呂で全裸になれないなら、それは嫌だなあと思います。




 次に、2つ目の「欧米的な個人主義は日本に合わないのかもという想い」について。この想いについては、少し突っ込んで考えてみます。


 東日本大震災が起き、福島第一原発の事故がありました。東日本大震災のとき、暴徒になることもなく、整然と家路についた人たち。私も当日4時間かけて徒歩で家路をたどりました。整然と帰る人たち。道々の店は、ゆっくり休んでくださいとか、トイレ使ってくださいなどの張り紙がしてありました。そして、震災後の週明けから、あたかも何もなかったがごとく、出勤しました。多くの方が月曜日から出勤されたと思います。


 会社で懇意にしている外資系弁護士事務所のパートナーの先生(日本人)から聞いた話。かの事務所では、東日本大震災がおき、福島第一原発の事故が起きたのち、本国の事務所より、即座に、関西以西に逃げろという指示が来たそうです。先生も、とりあえず、大阪あたりで2泊ほどしたようですが、やることもなく、東京に戻ったようです。
先生と一緒に仕事をしていた同僚(欧米人)は、かなりの数本国へ避難。連絡もよこすことなく、最終的には帰ってこない人がかなりいたようです。


 少なくとも欧米的な個人主義が染みついた人たちは、東日本大震災福島第一原発事故という事態になったときに、パニックになり仕事よりも自らの命やらを考え、さっさと避難するのでしょう。かの事態で、日本人の多くは避難することもなく、パニックになることもなく通常通り仕事をしたのです。


 どちらが良い、悪いの話をしているわけではありません。上で紹介した「公共の福祉」は、やはり、かの事態に陥った時に、パニックになり、さっさと非難するメンタリティの方々がこしらえた概念なのかなあと思います。そこで、欧米由来の「公共の福祉」という文言を、日本人のメンタリティにあわせて変えてみたらどうかという提言があったのかなあと。主張している党やご本人が意識しているか意識していないかは別として。


 仮にそうであれば、その心意気に賛同します。法(憲法、法律を含む)はそれを適用する人のメンタリティにあったものであるべきです。ただ惜しむらくは、「公益及び公の秩序」という言葉の稚拙さ。この心意気については、憲法の文言を変えるべき問題なのかも含め、さらに突っ込んで考えてみたい論点です。