何のために学ぶのか

先日(8月19日)のブログで、自らの知的営為の方向性について、書いているうちに思い出しました。
日露戦争で活躍した秋山好古陸軍大将が子供の頃に父から「信(好古の幼少時の呼称)や、貧乏がいやなら、勉強をおし」という司馬遼太郎坂の上の雲』の記述を佐藤優氏が次の著書でバッサリしてる一節を。

野蛮人の図書室

野蛮人の図書室

≪学問は本来、真理を追究するためのものだ。それがここでは就職の手段となっている。そして、良い成績をとってよい就職をすれば、経済的に苦労しないという俗物精神がここで褒め讃えられている。こういう姿勢でいくら勉強しても、受験に合格する力はついても、物事を判断するために役立つ教養は身につかない。(中略)こういう勉強は結局時間の無駄にしかならない。
 『坂の上の雲』型の勉強では、国際競争に耐えることができるような真の教養人は生まれてこないと評者は考える。≫(同書105頁)

うわっ、辛辣(笑)。しかも、「国際競争に耐えることができるような真の教養人」とはハードルが高い(苦笑)。それはともかく、私の秋山大将の理解では、きっかけは、貧乏がいやだったのかもしれませんが、好古大将がそんな俗物精神の塊とは思えません。(おそらく)客観的な資料で、自分の給与を、専門の騎馬の原書の講読や自分の酒(もう大変な酒豪だったようです。はーと。)や部下への振る舞いに充てており、家計は火の車だったやに聞いております。筆者が在籍していた外務省の役人の誰かを弾劾しているのかもしれませんね。。。


とはいえ、非常に大事な指摘をしていると思います。「真理の追究」と言われると自信がなくなりますが、何か使命を感じていることや、少なくとも楽しいと思うことこそが、学ぶことの動機の本来あるべき姿ではないかということです。


私も、司法試験(旧試)の受験をしているとき、大学院の修士課程におりましたが、真理を追究している(ことになっている)学者志望の人がとても羨ましかったのを憶えています。併せて、そいつらの、法律学に対する踏み込みの浅さにイライラした記憶があります。


まあ、それはともかく(ロジックが二転三転してますね)、真理の追究かどうかはともかく(結構気にしてる)、ワクワクしたり、楽しいな、充実しているなと思うことこそが、学ぶためのきっかけなんだろうなと。


ワクワクするなら、多少営利的な目的が入っていても、良いんではないかと思うんですが。自分も楽しいし、可能ならば何かしら他者に少しでも良い気付き(不遜ですがね)があれば良いのではと大雑把に考えていますが。私、酩酊しないとブログが書けない病(おそらくアル中)なんです。言い方を変えれば、独りでPC向かってても、それを酒の肴にして、独りで盛り上がれるくらい楽しいことを(主観的には)ブログに書いているつもりですし、読書しているときは楽しくてしょうがなくて、酩酊すると難しい本が読めなくて困っている馬鹿な男闘呼です。仕事を早く終わらせて本の続きを読みたい症候群が、4年くらい続いています。現在、ビール1L&グレープフルーツ酎ハイ0.5L飲みました。おやすみなさい。