専門家が己の分を尽くすために

少し前ですが、イタリアで2009年におきた地震の「安全宣言」を巡り地震学者が禁錮6年の実刑判決を受けましたね。


報道によれば(例えば、2012年11月11日日経新聞朝刊「日曜に考える」)、地震学者らは地震が起きないと断言できないと言っていたにもかかわらず、安全宣言をしたい行政にうまく利用されたとか。裁判の争点は、余地が失敗したことではなく、リスクを正しく伝えなかったことにあったようです。


法務パーソンとして身につまされる事件であります。現場の方々から、リスクがあるのかないのかとか、違法か適法かと問われたとき、心ある法務パーソンの場合、とりあえずリスクがあるとか違法とか言っておけば安心だけど、それじゃあ存在意義がないから、条件留保付きでリスクがないと言ったのに、いつの間にやらリスクがないという言葉が一人歩きしてたってことは、あるんじゃないでしょうか(インクルーディング:斜め読みした偉い人が一人合点して、社内のコンセンサスを取ってもうた場合)。


これで思い出したのが、原発の設置候補地を選定する際に、とある専門家が当該場所に断層があったということを報告しようとしたら、握りつぶされたという記事。


この記事からまた思い出したのが次の記述。話はさらに飛び、太平洋戦争におけるレーダー開発に関する米国と大日本帝国の違いについて。(孫引きで恥ずかしいですが、以下の本の引用頁を示します)

「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ

「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ

≪研究所に対する海軍当局(引用者注 米軍のこと)の方針は研究とその評価については、もっぱら我々科学者が担当して、軍人はこれにまったく関与しないということでした。研究所は海軍の管轄下にあったのですが、研究については軍人よりも科学者のほうが通暁していることを認めて、民間人である科学者にまかせていたのです≫(154頁)


補足すると、レーダー開発を専門家に任せた米国海軍と、レーダーだけでなく専門家をも軽視した大日本帝国海軍の違いを示したものです。


学問の徒、というと大げさですが、大日本帝国海軍の専門家への軽視が見て取れます。先に言及したイタリアの地震予知にしろ、原発の設置場所の話にしろ、行政側の事なかれ主義があるにせよ、法務パーソンとしては、広い意味での専門家軽視を感じ取りました。


こんな風に専門家が軽視されるのは、これまでは日本だけかと思っていましたが、イタリアの地震の記事をみると、米国の海軍が極めて稀な例外なだけで、多くあることではないかと思ってしまいました。


その理由を新渡戸稲造の名著の次の記述を手掛かりに探っていきます(愛読しているのは岩波文庫版なんですが、趣旨をわかりやすく伝えるため、平易な次の本から引用しています。)。

武士道 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ2)

武士道 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ2)

孔子孟子の書物(中略)を読み、知識を得ただけというだけのものでは世間から高い評価を得ることが出来なかったのです。「『論語』読みの『論語』知らず」ということわざもあったくらいで、知識だけの者はかえって馬鹿にされました。≫(30頁)


≪武士道の世界で、知識に関する専門家はあたかも機械のように考えられていたのです。/知性そのものは、倫理的な感情の下位に置かれました≫(31頁)


ん〜、専門家の知見を利用する側の諸事情を視野の外に置いて、すごく乱暴にまとめると、専門家が軽視されるのは、空虚な知識を振り回す専門家が多いからではないかと。


法務パーソンの仕事でいえば、現場の人から相談された案件を、どうでもよい細かい文言やらちょっと気になる点を、自らの視野の狭さが原因だったり、責任逃れの観点から、潰してしまうことなのかなと。大きな会社ですと、法務部門が絶大なる権限をもっており、現場の人は相談すらしないという話もちらほら聞いたことがあります。オラオラ系法務ですね。法務部門が絶大なる権限を持っている会社にいたことがないんで(苦笑)詳しくわからないのですが、逆にそれだからこそ、相談されない法務なんて、存在する意味ないと思います。もちろん、「違法だけどヤルゼ!イェ〜!」とか言ってる現場の人を身を挺して止めなければなりませんし、止めた場合、相談されなくなるのは当然なので、さじ加減は難しいのは確かです。でも、法務部門は、会社それぞれでしょうが、最終決定権限は持っている筈はないんです。そこを勘違いしてはいけません。いくらコンプライアンス大事だぜ、イェ〜イとか言っても、法務部門が関与できる範囲なり間合いは限定されるはずです。


その意味で、自らの業務の間合いをしっかり見極め、その範囲でコメントする謙虚さが大事だと思います。


ただ、謙虚の名を借りて、とりあえずダメと、責任逃れする専門家もいますね。これも、専門家軽視に拍車をかけますね。これも駄目。草食系とでもいうんですかね。

産業革命以来、分業こそが、世の中を住みやすくしたと楽観的に考える者としては、専門家が各々の分野で己の分を尽くせば尽くすほど、世の中はよくなるのではないかと考えています。己の分を尽くすために専門家は軽視されてはいけません。


法務パーソンの話に限定しますが、技術的には、よくよく現場の人や経営者の話を聞いて、これは絶対ダメ、これはグレー、これはOKという範囲を確定し、ブレないというのが大事なんじゃないかなあと思います。選択肢をいくつか呈示して、メリットデメリットを指摘してあげるとさらによいのかなあと。


そして、精神的には、先程引用した『武士道』の知識に対する次の心構えを、頭の片隅に置いて、自らを戒めたい。

≪知識はそれを吸収することが最終目的ではなく、英知をもって何らかの偉業を達成するためにこそ、追求する価値があったのです≫(31頁)