【本】渡邊大門『戦国の交渉人 外交僧・安国寺恵瓊の知られざる生涯』

戦国の交渉人 (歴史新書y)

戦国の交渉人 (歴史新書y)


戦国末期から関ヶ原の合戦まで、毛利氏、豊臣氏のために粉骨砕身した、意外と知られざる大物の生涯を辿った本。


毛利氏は、簡単に言うと、薩摩藩(鹿児島県)と共に明治維新の原動力となった藩の殿様の一族です。鎌倉幕府をつくった源頼朝が京都からヘッドハンティングした大江広元の四男を始祖とする安芸国広島県)を最初の本拠とし、江戸時代は長門国周防国山口県)を本拠としていました。


母親が山口の出身である関係で、母方の祖父からは、毛利氏の歴史をあたかもその場に居合わせたかのように聞かされて育った私。古くは毛利元就の「百万一心」から、新しくは、四境の役(しきょうのえき。一般的に言うと第二次長州征伐)まで。四境の役のときの大島口の攻防、大洲鉄然が山口へ救援を求め、高杉晋作が幕府側の戦艦に夜襲をかけ、という話は、私もあたかもその場にいたかのように話せます。


そんな一般人としては比較的毛利・長州藩リテラシー(謎)の高い私でも、安国寺恵瓊については殆ど知りません。織田信長が謀反で倒れることを予想したとか、関ヶ原の合戦の敗戦で石田三成小西行長とともにさらし首になったという情報しか知りませんでした。


この本は、そんな安国寺恵瓊が、戦国末期から織豊政権において果たした業績について、相当抑えた筆致でたどる快著です!歴史学については門外漢な私ですが、一応民事法学で修士課程までいっており、まあ、その世界では有名な先生方の論理的でない感情的な論争をいくつか目にしてげんなりしている経験があり、そんな乏しい経験からも、一次資料に拘り、飛躍しないように飛躍しないように心掛けている筆者の(失礼ながらも)職業的良心は、読んでいて非常に心地よかったです。


それはさておき、本書では、恵瓊の八面六臂な活躍が書かれています。おそらくその筋では(謎)争いはあるのでしょうが、毛利氏と主従関係に準じた立場にいながら、豊臣秀吉九州征伐、検地、文禄・慶長の役(要するに秀吉の朝鮮征伐です)において、秀吉の意を受け活躍している箇所に心を惹かれました。


毛利氏の一員である(ここではそうします)恵瓊が豊臣秀吉の手下みたいな働きを何故したのか?筆者は、≪その生涯をたどると、「毛利氏のために」という一心で動いていたことがわかる≫(246頁)と述べています。


はっきり言って、いがみ合っている相手方との交渉は大変です。労務トラブルで解雇無効とか、残業代不払返還請求とか、パワハラ・セクハラとかで、交渉をやってきた私としては肌感覚でわかります。


そんな仕事を粘り強くやる。うまくいかないときは、酔っぱらいながらの上申申し訳ございませんと言いながら、上申をする。


しかも、秀吉は「朝鮮を明(当時の中国の王朝)を征伐するので、その先兵となるように」という指示だったにもかかわらず、その部下がそんな指示を朝鮮当局(謎)に伝えられず、「明を攻めるので朝鮮は道をあけてほしい」と伝えたのを拒絶されて始まった文禄・慶長の役です。毛利氏の本拠である広島での秀吉の饗応に心を尽くしつつ、当時ですと平均年齢をとうに超えている六十歳を超えて、朝鮮出兵に同伴し、八面六臂の活躍をしています。いうなれば、目的観のわからない仕事にも、老体に鞭打って粛々と仕事をこなしているように見えました。


戦国の人の仕事観を想像するのは難しいので、単純に自分に引き付けて考えると、こんな仕事やってられないっす。それでも、粛々と自らの仕事を行った恵瓊。なぜ、毛利氏のためにという一心が育まれたのでしょう?大内氏(当時山口県などを本拠としていた大名)と毛利氏の連合軍に、父の主人の城を攻められ、主人とともに恵瓊の父は切腹してしまいます。当時3歳から5歳といわれる恵瓊は、父の主人の城の近くの寺にのがれたようです。自分の父を殺した毛利氏への忠誠心はどこで育まれたのでしょうか?


父が切腹した前後に逃れた安国寺の所在する土地へのいわば郷土愛と、自分を引き立ててくれた師匠が毛利氏と強い影響があったからかと思います。師匠は、広島のしがない寺から首都京都の大きな寺に引き立ててくれています。恵瓊はその広島のしがない寺のナンバーワンの地位は何な何でも手放さなかったようでその寺の名前である安国寺をもって自らを呼称していたようです。


そんな恵瓊は、毛利氏の領土の保全という本来主従関係上当然要請される仕事だけでなく、豊臣秀吉に気に入られ、毛利氏のために、毛利氏と直接関係のない仕事にも従事し大活躍しています。最終的には、関ヶ原の合戦で、(無意識なのかもしれませんが)毛利輝元に、二股をかけられ、最終的にスケープゴードとしてさらし首になっています。


さて、そんな恵瓊がさらし首になったのは、1600年の10月1日(当時の暦)。最終的に毛利家がお家存続になるのは、もっと後なので、「毛利氏のために」粉骨砕身した恵瓊がさらし首になるとき、どんな気持ちだったのでしょうか? 自分がスケープゴードにされたことで毛利家がお家存続となり、最終的には、徳川幕府を終了させる原動力となったのでしょうし、恵瓊の功績を再評価するこんな本も出ているのですから、泉下の恵瓊も満足していることでしょう。


とはいえ、秀吉が織田信長の家臣だった頃から秀吉の才覚を認めているように、人の能力や時代の流れに敏感な恵瓊ですら、時勢を見誤ったことは、あまり信じられません(後付けです)。高齢ゆえの衰えなのか、筆者がいうように策を弄しすぎたのか、自分の父を事実上殺された毛利氏と同じように豊臣氏にも打算的観点を超えた愛着を感じていたのか。。。なんとなく一番最後のような気がしますが、それはそれで、一本筋が通っていて、ブレブレ人間な私には眩しすぎます。